時空の移動を伴うフィールドワーク。それはつねに何らかの問いをその内側に宿す。
水となって荒川を下る3月のフィールドワークを終えて、魚の骨のように喉元に引っかかっていたことがある。赤羽まで流れてきた荒ぶる川の水が岩淵水門によって制御されたおかげで、その下流の22キロの荒川放水路の流域には、水害の心配が少なく、社会経済活動を安定的に行うことができる空間が出現した。道路や鉄道が通る鉄橋が渡され、周辺にはビルやマンションが建てられ、宅地や町がつくられて、荒川水域には1千万人近くの人々が住む空間が実現したという。 人の手によって建造されたインフラ構造物が、巨大人口が住まう空間を可能にしたわけだ。
”インフラとは何か?”というのが、ひっかかっていた問いであった。その問いに導かれて、今回のフィールドワークで我々はまず、首都圏外郭放水路を訪れた。
過去に水害に見舞われてきた中川や綾瀬川の流域は皿状になっていて水が溜まりやすい。 首都圏外郭放水路とは、これらの地域に溜まった水を江戸川に放水し、水害を予防するために建造された巨大インフラである。全長6.3km、地下約50mの地点に設けられた世界最大級の地下放水路は、1993年に着工し総工費2300億円をかけて2006年に完成した。 あたりの諸河川から水を取り込む円筒状の立杭が5つある。地下トンネルで繋がれている5つの立杭のうち第1立杭を見学した。それは直径30m、深さ70mもあり、下を見ると足がすくんだ。
地下トンネルから流れてきた水を江戸川に流すための調圧水槽には、高さ18mの柱59本がそびえており、それは「地下神殿」とも呼ばれる巨大な建造物だった。
現代の土木工学の粋を集めた巨大なインフラ構造物の異容な佇まいに圧倒された後、その地域に広がる水管理、とりわけ農業という生業を可能にしたインフラを歩く旅に出かけた。8代将軍吉宗の時代に徳川幕府は、利根川の流れから85キロに及ぶ水路を開削し、水田に水を潤し、物資を江戸市中に運ぶために、「見沼代用水」をつくった。 その灌漑農業用水を利用する田んぼは、田口を見沼代用水側に、田尻を芝川、加田屋川に排水するようにつくられて、見沼には、短冊状の田んぼが幾重にも並ぶようになった。
「見沼田んぼ」は、その後、戦後の高度成長期になると、しだいに開発の波にさらされるようになった。しかし、埼玉県を直撃した1958年の狩野川台風以降には一転して、開発は規制されるようになった。見沼田んぼが洪水被害の軽減に役立ったと考えられ、その一方で、その地域には浸水被害が見込まれるとされ、農地から宅地への転用が規制されるようになった。「見沼3原則」 が唱えられた結果、見沼には、東京近郊最大の緑地が残されることになった。
広大な田んぼやその周辺地では現在、鳥や虫が鳴き、野草が咲き乱れ、野生動物が行き交う。見沼代用水の周辺を歩きながら、我々は、日本の社会構造や産業構造の変化や近未来、農や食をめぐる課題などについて道々話し合った。
さいたま新都心駅近くで我々は、地面から見上げると、「ザ・インフラ」と呼びたくなるような高速道路の高架下にぶつかった。 首都高の下には、見沼たんぼ首都高ビオトープが、柵に囲われて広がっていた。そこでは、逆に人間が疎外されていた。アナ・チンによれば、生の絡まり合いがあたかもないかのように他(種)との関わりを持たずにいることが疎外である(『マツタケ』)。そこでは、人間が疎外されて、複数種の絡まり合いから取り除かれてしまっているのかもしれない。
人の技術を結集してつくられた強度のインフラ構造物の下に、本源的な「自然」を創り出すためにビオトープが設けられる。 ビオトープは、首都高の敷地内での試みであるのかもしれないが、打ち続く車の騒音により、動物たちや鳥たちにとっては、必ずしも"サウンドスケープ"(「健全な音景観」)にはなってないはずだ、という感想がふと口をついて出た。
インフラを通して見た首都圏の景観は、人間が建造したインフラによって生み出されたフェラル(野良な)生態を検討する、「人新世」という問題提起以降の人類学の課題へとつながっている。→第19回読書会にて検討予定。