3月下旬、東京に雪が降った翌朝、私たちは、奥秩父・入川渓流釣り場から入川林道を歩き、赤沢出合を越えて、荒川の起点碑を目指した。途中、シカやサルたちに遭った。
雪は深いところで、くるぶしあたりまであった。
軽装備の私たちは、雪に覆われたガレ場にとりついたが、それ以上進むのを断念し、水の流れる音を聞きながら、そこで「水になった」。
水となった私たちは、清流となって山あいを流れ下った。
やがて、二瀬ダムによって秩父湖を生み出すとなった秩父ダムに辿り着いた。
途中、江戸中期に「お犬様」信仰が広まった三峯神社に参った。奥宮がある妙法ヶ岳は、うっすらと雪に覆われていた。
かわはく(埼玉県立川の博物館)では、私たちが流れ、人間界ではそう名づけられている「荒川」をめぐる展示がなされていた。屋外に、甲武信ヶ岳にある源流から東京湾までの河口に至る流れが1000分の1に縮小され、パノラマ展示されているのは圧巻だった。また、屋内では、木材の運搬のために使われた鉄砲堰や、自然堤防の上に居を構え、水害に備えるために食料や資産を保持するために建てられた水塚などの展示が、水(荒川)と人間の関係を知る上でとても示唆的だった。
私たち水は、人間にとって、とりわけ、1000万人ほどの首都圏の人口にとってとても大切だと考えられていて、私たちの流れを管理するために必要だと考えられている、荒川水系第二調整池の建設がいままさに進められているところだった。
第二調整池に先行して1997年に作られたのが、彩湖あるいは荒川第一調節池である。それは、首都圏に住む人たちに水を届ける利水機能、首都圏を洪水から守るための治水機能を担っている。人間とは、力を合わせて、とてつもないことを成し遂げる種に違いない。
1910年(明治43年)に、私たちの祖先の水、すなわち荒川が氾濫し、流域の人々に甚大な被害をもたらした。それを機に、下流域の改修計画が策定された。22キロにわたって、「荒川放水路」と呼ばれる人工の川が作られた。その起点が旧岩淵水門であり、その後老朽化によって、それは岩淵水門に立て替えられている。岩淵水門の隣の敷地にある荒川知水資料館では、荒川放水路の建設により、川岸が作られ、水路が掘られ、東京のインフラが整備され、流域が開発されていった様子が分かりやすく説明されていた。
赤羽の岩淵水門の近くの八雲神社には、私たち水を司る水神が祀られていた。
京成線四ツ木の川べりには、荒川の上流から運ばれてきたごみが流れ着いている様子が確認できた。
そして、起点から173キロを経て、水である私たちは東京湾へと流れ着いたのである。
『森は考える』だけでなく、『川は考える』も書かれなければならないだろう。