高松入りした我々はまず、県立図書館に向かい、資料・情報収集に努め、その後、高速フェリーで豊島の家浦に向かった。
我々は、豊島産業廃棄物処分地(いわゆる豊島事件の現場)を訪ねた。
1975年に産廃業者による不法投棄が始まり、事業者と香川県の「協働」により、次々に産廃物が島内に持ち込まれ、野焼きなどにより異臭を発するようになり、遠く高松市の県庁の上層階の窓からもその煙は見えたという。1990年に産廃業者は兵庫県警の強制捜査を受け、その後住民は公害調停を申請し、2000年になってようやく香川県と住民間で調停が成立し、その後、処理事業が続けられてきている。これまで91万トンの産廃が島から運び出され(10トントラックで豊島から東京間の距離になるという)、瀬戸内海に排出される地下水の浄化も進められている。事業予算が終了する予定の2023年3月に向けて、現状10数人態勢で進められている処分場を我々は見学した。
産廃業者の事務所を利用したつくられた産廃資料館には、かつてこの島に運び込まれ、不法投棄された産廃から剥ぎ取ったシュレッダーダストが壁面いっぱいに展示されていた。それは、現代において人類が持つようになった「ごみ問題」の象徴であり、その前で、言葉を失い、圧倒された。
現在でも産廃の処理作業が進められている現状で、2009年から「瀬戸内国際芸術祭」が開かれるようになり、豊島には豊島美術館も建設され(2010年開館)、豊島にはアートによって地域振興し、再生していくというイメージがある。この点に関し、住民の意見をうかがう機会があったが、それは可能性である一方で、新たな試練であるという見方がなされたのは、とても示唆的だった。
地域アートは、構造的には、利益第一主義がもたらした産廃の再生産に他ならないのではないかという意見には得心がいった。島は行政上の出先であるため、島の住民の健康や福祉向上のために非常勤手当をもらって仕事を請け負っているかたちになっているが、そのことは、観光客のための健康や福祉をもまた担わねばならないという方向へと転じてきているという。コロナ禍において一層顕在化したのは、島の住民が患者の搬送作業などに従事することで、感染を避けるために仕事を事後に控えねばならず、経済活動としてアートがあべこべに島に試練をもたらすという事態である。クリスチャン・ボルタンスキーであれば、アートや観光を推し進める経済優先の考えではなく、そうした問題を抱えている住民の試練に同情したのではないだろうかという言葉がとても印象に残った。
そのボルタンスキーの作品であるとされる「ささやきの森」を訪れた。確かに、訪れた観客風鈴そのものを加えることで、作品そのものに観客が加わることができるというのは画期的だ。そこでは、自然の振る舞いが可視化ではなく、可「聴」化されている。無音、風鈴の音の強弱により自然を捉えること、自然を耳で触れることができる。しかしそれ自体、とても人工的な仕組みであり、人間に対してもたらされる音が捕らえられるということなのではないか。それであれば、もっと根源的に、山水自体がお経のようだと言った鎌倉時代の道元禅師のように(「山水経」『正法眼蔵』)、自然の音を聞くという感性を養うということのほうがより「自然」であるようにも思われる。アートとしては、この作品は、そういったことをああでもないこうなのかと考えてみることの大切さを示しているのだとも言えるのかもしれない。
1960年代に始まった過疎化の影響で、かつての「食の豊かな島」では、農地が荒廃したという。瀬戸芸を機に、現在、豊かな農作物と見事な景観を持つ「唐櫃の棚田」の復元プロジェクトが進められている。
豊島を離れ、ふたたび高松を訪れた我々は、豊島の住民が「きどった」佇まいだと表現した香川県庁の庁舎を、(日曜なので閉まっていたため)外から眺め、東京に戻った。